忙しいことがありがたいとは思えない

 今まであまり気にしなかったのだが、自殺のことを考えた数日後、なんとなく耳にした言葉があった。

忙しいことをありがたいと思っています

 毎日とは言わずとも、ときどき耳にする人は多いだろう。
「忙しいことはありがたい」はたしてそうだろうか?
もし、忙しいことがありがたいことだという認識が社会の中でまかり通っていたら、それはそれはとんでもないことではないだろうか。
そもそも、「ただ忙しいこと」はありがたくもなんともない。
その忙しさの中に、楽しみや充実といった感覚があるからこそ、「忙しいことがありがたく」なるはずだ。

ただ忙しいこともありがたいと思わなければいけない空気

 日本にはこんな言葉がある。
「過労死」だ。
働きすぎて死ぬなんて、正直馬鹿げている。
それなのに、このようなことが起きる原因の1つに、「忙しいはありがたい」というものがあるのではないだろうか。
どんなに好きな仕事であったとしても、休みをとることもままならない状態にあったら、「ただ忙しい」だけではないだろうか。
まったくありがたくもなんともないはずだ。
その仕事も、自ら進んでやっているというよりも、立場からしてやらなければならないという心理状態に追い込まれてやっていることが多いはずだ。

高効率のなれの果てに

 生産性を上げろ、効率をよくしろと言われてはいるが、そのよくなった効率分の時間を個人に還元するシステムがない。
そして、「ただ忙しい」の悪循環から逃れる手段が乏しい。
前者は、個人での仕事の効率を上げたとしても、チームで仕事をしている場合は、どうしても遅いやつが出てきて、結果として遅く終わってしまうこと。
また、サービス残業など賃金を支払われない余分な仕事。
後者は、簡単に転職や退職することができない環境があることだ。
そもそも、本当に効率がよくなっているのなら、仕事の時間は減るはずだし、仕事によって殺されかけているのに、今後の生活を考えるとやめられない状況があるのはおかしな話だ。
少なくとも、死ぬために働いているわけではないはずだ。
生産性を上げろと言い、結果として仕事の量も増えてしまっているのではないだろうか。
明日を生きるために働いているのに、そのために死んでいる人がいることを思うと、いたたまれない。


忙しいは全くありがたくない。
もし、忙しいことがありがたいなんて言っている人がいるなら、本当は忙しくないか、まわりから忙しいと言われているだけではないだろうか。