ありがとう、伝わらない言葉に

 言葉はそもそも伝わらない
例えば、目の前で会話していたとしても、「互いに理解の差異」が出てくるので、伝えたいことも伝わらない。
日本語で話そうが、英語で話そうが、同じ。
ただ、目の前にいると、相手の表情が見えますから、その分「言葉にある感情」をつかみやすい。
それでも、理解した、という言葉を使うのに抵抗感があるのは「相手が自分」じゃないからだ。
それはあんたの主観だろ、と言われればそれまでなのだけれど、自分の経験と相手の経験から反映した言葉に込められている感性、感情、記憶は同質のものではない。
「違ったものを互いにぶつけ合うことがコミュニケーション」だとするならば、日常の会話においてさえ、考えの差異があるのだから、人間同士が生活するということは、互いに誤解しながら生活しているということになる。
実に絶妙なバランスの上でも生活できるのは、大きな意味で言語の意味が決められているからだろう。


 伝わらない、それでも信じたいもの
よく、コミュニケーションをしろといった言葉がある。
会話することによって、互いの誤解を解いていこうというものだ。
しかし、前述したとおりに言葉は正確に伝わっていない。
「コミュニケーションにおいての最大の誤解は、相手の言うことをわかったと思うこと」だろう。
つまり、自分の中にある感覚と照らし合わせて、一番近いと思われる感じ方を自己投影して、相手の言うことをわかったと思うこと。
これが理解というものではないだろうか。
相手に、自分の理解してほしいと思っていることがあったとしても、相手に自分と似たような理解する引き出しがなければ、自分に近しい理解は望めない。
ここでの差異で恐ろしいことは、相手にとって大したことでないことでも、自分にとって大変なことを伝えることだろう。
あえて恐ろしいと表現したが、自分の辛さをわかってもらうために、自分の感覚の何倍もの辛さの表現を加えることになり、結果として相手に伝わっても、自分に嘘を、相手とっての事実を伝えることになる。
残念だ、それでも、相手がわかってくれる。
少なくとも、相手は辞書に書いてある意味程度ではわかってくれるはずだ。


 メールコミュニケーションの誤解
互いに言葉を交えても本当の意味では伝わらない。
ならば、メールはどうだろうか。
メールでの会話は、目の前での会話以上に、互いの理解がズレやすい。
どれだけメールの中に、愛してるとあっても、所詮見たまんまの文字だ。
そこで、また過剰装飾な言葉を使うわけなのだが、この場合、目の前で言ってしまえとなる。
メールで感情を伝えようとすることほど、難しいものはない。
プラスの意味のことを感情的に伝えることも難しい、その反対にマイナスの意味のことを冗談として伝えることも手間がかかる。
死ね、といった言葉が冗談だったとしても、メールにただ一言書いてあったら恐怖である。
さっさとシネ!(笑)くらいにしてやらないと通じない。
そもそも、メールで会話するときに死ねなんて使うだろうかと、ふと思ったが、使う人もいるだろう。
それだけ誤解が生じやすいメールで、自ら進んでリスクのある言葉を使う必要もないと思うが。


 解釈の差異に議論の余地があるはずだが…
コミュニケーションにおいては、互いの感じ方に差があると厄介だったりする。
しかし、何か一つの題材を扱って議論する場合、互いにいい意見が出て、素晴らしく有益な解釈に持って行ければいいものなのだが、どうも、互いに意見を譲らないことがある。
テレビでの議論を見過ぎだろうか、それにしても、言いたい放題言って、結論が出ぬまま終わるものがある。
議論の中身にもよるが、そもそも答えが必要ない議論もある。
それとは対極で、答えが後々出てくる決断をするための議論がある。
国会などまさにそのようなものだろうが、国会中継を見ても、野党のアイディアいただき、なんて言う与党は出てこない。
構図として、与党の意見、野党の意見はあるけれども、与野折衷の案が公然と発言されることはない。
議論が平行線のまま終わり、結局与党案で衆議院を可決するのだ。
面白いアイディアがあれば、他人のものでも認めてしまえばいいのにと、傍から見て思う。
政治というのは、「互いの解釈の差異による議論の余地」を最大限に使えないようにしているものの代表例だ。
その対極で、議論を純粋に楽しめるのは、読んだ本の解釈だったり、ドラマの続きがどうなるか話したり、
ひぐらしのなく頃には、竜騎士07さんが内容を議論することを推奨なさっていましたが、「コミュニケーションは差異も含めて楽しめる」というところに落ち着ける可能性があるものではないだろうか。


 伝わらない言葉にありがとう
ここまで、延々と伝わらないことについて書いてきたのだが、
伝わらないを、想像の余地というもので補っていることを言わなければならない。
その想像をさせるために、言葉を過剰装飾するといっても過言でない。
さて、そこで思うのだが、言葉は文字として処理しているのだろうか。
ある楽曲のワンフレーズを聴いて、その曲と思いでがセットで頭の中を駆け巡ることがある。
そんなとき、「音とイメージが互いに影響し合って言葉というものになっている」のではないか、と思う。
音というのは、音楽だけでなく、発音なども同じだ。
文字としての言語は共通で使えるものだろう。
しかし、言葉が自分の中で、どのように捉えているのかを考えると、必ずしも他人と共有できるような感覚ではない。
自分の心の中で混ざり合ったさまざまな記憶、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、感覚。
そのようなものが、言葉にならない言葉として、感じるものではないだろうか。
そんなときには、伝わらないけれど、一瞬で別の世界を見せてくれる言葉にありがとう、と言いたくなるのは無理やりだろうか?
それが自分のオリジナリティーだとしても。