悩む凡人、悩めぬ天才

 天才とは何だろうか?
今日は、個人的な天才観とやらでも書いてみる。
ただ、仕事ができるとか、勉強ができるとか、そういうことは天才の枠には入らない。
とても個人的な感覚なんですけどね。
興味があったら一読あれ。


 個人的天才観
何年か、5年とか10年とかそういう単位で現れる存在がいる。
とても「あっけらかん」としていて、傍から見て本当に悩んでいるのかと思えるようなやつがいる。
勉強ができるわけでもないのに、なぜそんなに悩まないでいられるのかと。
そういう風に見えても、悩みはあるだろうと思う。
そんなことくらいわかっているのに、それでも本人にはあまり焦りが見えない。
さらに、うらやましいことに至って健康なのだ。
しょっちゅう風邪をひいているような、自分のような人間にはうらやましくて仕方がない。
どうも意識してそのような行動を起こしているのでもなさそうだ。
だとすれば、もう才能としか言いようがない。
これは、天才だと思う。


もう1つ、天才だと思える存在がいる。
どんなことでも、努力を続けられるやつらだ。
辛抱強く、1つの目標に向かって、粛々と準備ができるような人たちだ。
この2つが組み合わさっているとすれば、少なくとも自分の中では天才だと思う。


 悩める凡人
悩みが少ないってことは、生きていく上で有利だと思う。
悩む部分を素っ飛ばして、次の手を打つことができるからだ。
そんな天才ならば、突発的な発想があって、事後処理は後々すればといった感じのことができる。


が、自分は少なくとも凡人だ。
悩むし、引きずるし、そもそも健康体ではない。
ただ、悩むことは好きになりつつあるし、健康は仕方がないと思いつつある。
こうして見ると、そこそこ妥協している自分が見える。
迷いとか、悩みとか、尽きないけれどそれでも前に進むしかない。
悩みには、ビールのようなすっきりするような勢いはない。
酒樽で寝かせるくらいの気持ちで悩むしかない。
10年くらい後に答えを出すくらいの気持ちでほおっておくこともある。
決断することだってそんなに好きでもない。
それでも、小さな決断を積み重ね、渋々前に進む。
器用に素っ飛ばす生き方はできない。
それでも、そんな自分は嫌いではない。
天才を見たらすごいと思うし、何かできないかなとも思う。
要は、1人で何でもしようとすることを諦めた。
といっても、このブログは1人で続けるしかないのだが。
そうやって、徐々に天才のように、努力を続けられるといいな。
努力の部分は誰にでもできるようだ。


ああ、でも前述のあっけらかん天才にはなれそうにない。
なら、悩んで悩んで悩んでやる。
どれだけ時間がかかろうとも、それなりにやるしかなさそうだ。
地道に進もうと思う今日この頃。