「幸せ」に幸せはあるか?

 もう、3月ですね。
春の足音が、刻一刻と迫る中、どことなく感傷的になってしまいます。
別れ、そして出会い、人との巡り合わせは不思議な遠心力をともなって、
ぐるぐると、ぐるぐると、まわりにまわって当たるもの。
偶然か必然か、よくわかりませんけど。
そんな3月なので、桜舞う季節の前にちょっとした考え事。

  • 幸せの定義

定期的にこんなこと書いてる気がします。
自分じゃ気づいていないかもしれないが、意外と「幸せ」に取りつかれているかもしれない。
そんな幸せの定義とは。


運がいいこと
巡り合わせ
うまい具合にいくこと
yahoo辞書大辞林より抜粋


これらが、大まかに幸せの定義だそうだ。
見てわかるが、これは他力本願寄りなもののようだ。
幸せは向こうから飛んでくるもののようだ。
個人的にはどうしようもない。
それでは、自分も含めた皆々さまさまが言う、幸せになるってなんだ?

  • 幸せは掴めるか?

定義通りならば、「幸せ」は「なってしまうもの」だ。
不可抗力で幸せになる可能性があるということだ。
しかし、「幸せを掴め!」なんて言葉もある。
幸せの、辞書の定義は、この時点で機能していないと言える。


「幸せが掴める」ものかといえば、掴めない。
目に見えないからだ。
もちろん物で幸せを感じるのならそれが幸せは掴めるとも言える。
これは一見すると屁理屈だが、一考する価値はあると思う。
なぜなら、定義通りならば、「幸せになりたい」と思っている方が正しいことになるからだ。
よくわからないが「幸せ」というものを感じたいと思うことだろう。


それに対し、「掴みたい」はとても能動的だ。
ただ、「掴みたい幸せ」はそもそも、精神的充足であることが多い。
今の幸せの価値観は、物にしろ、精神的なものにしても、「掴みに行く」という考えだ。
それはそれで、とても真っ当なことだろう。
発想として、欲しいものを手に入れることと同じなのだから。

  • 「幸せ」は幸せか?

「幸せ」という言葉は、幸せという皮を被った、一種の不幸への入口ではないかと思う。
幸せという言葉にしがみつけばつくほど、その言葉に、もて遊ばれてしまう。
幸せに中身はない、ただ、幸せという言葉があるだけだ。
これは別に、幸せという言葉だけの話ではない。
愛という言葉でも同じかもしれない。
どんな言葉にせよ、その言葉自体には意味がない。
だが、それ以上に言葉は力を持っている。
誰かの一言に惑わされることはないだろうか?


話がずれた。
幸せが幸せであるという証明はできない。
たとえ、誰かが作った幸せの価値観だったとしても、流行だからと乗って後悔するかもしれない。
もしかしたら、この「誰かが作った幸せの価値観」というものが蔓延しているのかもしれない。
大手のメディアが作った価値観に乗せられている。
ちょっとした流行りの言葉、映画、生活スタイル、職業など。
そこに幸せはないかもしれない、あるかもしれない、そもそも好みだ。
そして、「幸せは数字で表現できるものではない」。
故に、幸せは共通のものではない。
アメリカンドリームのように、金持ちになっても、それが人生の成功とはいえない。
金持ちでも、うまく金を使える人の方が、金で失敗することが少ないから幸せじゃないかなと思う。
貧乏でも、そこそこうまく生活してる人は幸せだろう。

  • 今の自分は幸せか?

ここからは、個人的な意見になる。
「今の自分は幸せか?」という問いに答えられるだろうか?
今の自分には、イエスという答えも、ノーという答えもない。
「幸せ」というものを無価値化してみようと思っている。
これは、ただ何となく何が幸せかを考えていたら、寒い冬にコタツに籠っていたら幸せかもしれないけれど、こういうことをいちいち、幸せという言葉で表現する必要もないかもしれないなと思った。
そこで、幸せに価値は必要ないのではないか?を何となく思案するようになった。
それでも、「あ〜幸せ〜」なんて言っちゃいます。
タツでも温泉でも、幸せってのは刹那、一瞬の感覚のように思える。
その一瞬の幸せという感覚のためだけに、無駄な意味を付ければつけるほど、幸せという言葉自体がメタボリックになっているようにも思える。
そろそろ、価値観に好き勝手な基準を持ってもいいころじゃないかと個人的に思う。