アンチ変化、脱個性!?

 何を思ったか「個性」がもてはやされています。
「個性」とは言っても、
言いかえれば「人とは違うところ」とも言いかえられる。
この差異によって、「いじめ」が始まることもある。


 ただ、思うに、「あなたの長所は何ですか?」
と聞かれた際に、即座に答えられるものだろうか。
「個性」でさえ、時として「人との差異」として祭り上げられる。
「長所」とは、「個性」と言い換えることもできる。
しかし、「短所」も「個性」と言うことができる。


 長所を伸ばせ、短所を補えと言われるが、
元を辿れば、結局同じモノではないだろうか。
ただ、「劣っている」と見られるか、
「優れている」と見られるかの差だ。
長所であろうと、短所であろうと、
恨まれるものは恨まれるのだ。


 オンリーワンだと持て囃すけれども、
オンリーワンなんて、ありえない。
個人は、過去にあるものの知識や
習慣の組み合わせに過ぎない。
そのような根本原理があるのに、
常に、オリジナルへと変化しようとすること自体、限界がある。
長所短所はもとより、「普通」という言葉でさえ、
個人の尺度にしか過ぎない。
言いかえれば、「普通」=「オリジナル」と言えないだろうか。


 多分、普通に生活していれば、個性が出てくる。
そもそも、家庭によって食事からタオルの使い方まで違うわけだ。
その延長線上として、大人になるのだから、
成長段階として、「人との差異」が出てくる。
その中で、ある日、突然学校に行く。
まわりは、もはや宇宙人だろう。
そして、集団として生活するのだから、
ケンカもするだろうし、気の合わないやつもいる。
まあまあ、と言ってなだめるやつも出てくる。
そんなふうに生活している中で、「その集団の普通」が出てくる。


 人とは違うことがしたい、そのように言う人がいるが、
それは、一種の他人否定ではないだろうか。
「他人=普通」という図式が出来上がってしまっている。
もし、普通というものを、
「その土地その時代の、最大公約数」と訳すのなら、
狭い世界しか見ていないからこそ、
違うことがしたいと言っているだけではないのか。
違うことがしたいのならば、
自分の属する集団から離れればいいだけの話だ。


 ここまで書いたのだが、言いたいことはただ一つ。
普通にしていれば、自然と個性的になる。
今の自分に納得できないのは、自分の属する集団に飽きている。
もっとも、個人で活動していたら、
その限界は自分ということになるのだが。
無理して、個性を求めることもないだろう。
変化が必要とは限らないだろう。
放っておけば、自分に成るのだから。