センス・オブ・ワンダー

 センス・オブ・ワンダー
レイチェル・カーソンの作品ですが、妙に印象に残っているので取り上げさせていただきます。
沈黙の春」という代表作もあるのですが、こちらを取り上げます。


 この本を読む前に、たまたまフィンランドの教育事情をどこかのメディアで見ることがありました。
理科の授業で森の中で植物の観察していました。
「あっ、いいかも」と思いながら見ていました。
森の中で何かをするって、一種の探検のようなものです。
名前の知らない、木や植物、森という空間に包まれているという感覚。
そこで見つけたものを観察する。
学校の外という好奇心を刺激される環境にいるっていいなって思いました。


 プランターの植物を観察するのなら、名前から育てた人までわかります。
でも、それは人の手で育てたものであり、空間を作り出しているわけではありません。
森の中は、たとえ木の手入れを人がしていたとしても、土や草木のにおいに満ちています。
一つの空間として、好奇心を刺激してきます。


 海などでもいいのですが、自然にしかないものがあります。
アスファルトやコンクリートには表現できないアートがそこには存在しています。
それを見たり触れたりするだけで、想像力が膨らみます。
見たり触れたりしたものを詳しく調べるのは、その後でいい。
そのような内容の本でした。


 センス・オブ・ワンダーはまるで教育の本みたいでした。
でも、どこか、夜明け前のやさしい時間のような雰囲気が漂ってきます。


 この現代の、理屈ばかりがまかり通っている学校という場所。
それも、意味もわからず勉強していることが多すぎる気がする。
気がするというよりも、多いすぎる。
理科の教科書よりも実験のほうが印象に残っている。
実際に見たり聞いたり、触ったりしたことのほうが頭には残っている。
理屈から入って、興味を失うことはもったいない気がする。
もうちょっと言うと、わからないから避けようとすることも同じだと思う。


 自分は数学というものが大っ嫌いだ。
何に使えるのかを誰も教えてくれない数式。
ここには、自分のイメージを入れる隙間がない。
でも、数学が好きな人はこれが出来るのかもしれない。
物事に自分の発想を入れて、入れ替えたり組み替えたりできることがどれだけ楽しいか。
答えはあとから教えてもらえばいい。
これって、知らないことへの好奇心のような気がします。


 子供のころ、どんな職業の人にでもなれた。
ごっこ遊びなのですが、いつの間にかやらなくなってしまった。
子供のころくらい、何やってもいいのにと思うけれど、親は坊ちゃん嬢ちゃんにしたいみたいです。
それでも、今でも自分はヒーローになれると思っている。
それくらい考えることはタダじゃないか。


 好奇心って、自分の脳みそを使って考えることだと思います。
悩んだり、想像してみたり、答えのない状態を扱うことだと思う。
働くことだって、子供にとってイメージがわきにくいことだ。
それでも、いろいろ考えてみるものです。
今は、キッザニアなんてものがあるからいいな。
あれなら、自分の知らない働くことを体験できる。
これって、社会の中で生きることを知るのに役に立ちそうだな。


 人間って、ほっといても何か見つけるセンスがあるのにな。
その部分を矯正するのは、その人にとって損だと思います。
そんな自分は、一度くらいキッザニアを体験してみたい。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー