建物の気持ち

 前回書いた「建物は黙って語る」という話。
でも、黙っているだけあって
どんなに素晴らしいものでも取り壊されることもあるんですね。
声あるものは幸い、とは言うものの
黙っていても何か言いたいことがあると思うんだけどな。


 どんなに貧相なビルであっても中がいい雰囲気のお店だったり
見栄えがどんなに素晴らしい建物であっても、中身がなければ寂しいです。
建物って、普段見る人、使う人に愛着を与えるようなものがウケちゃうんだろうなあ。
建物って、自分で使われ道を選べない、
生まれながらに自発的に動けないってかわいそうだな。
建物の気持ちで考えることって度々あったけれど、
考えれば考えるほど、人間って酷いことしてるよなあ。


 建物は建てるのも使うのも、評価するのも人間。
もちろん壊すことも。
辛うじて、建物には神経もないし、心なんてものもない。
でもね、最近かどうかは別として、人間の人間に対する扱いも似たような感じなのかも。
効率だとか、成果とかを求められがちじゃない。
仕方ないんだけどね。
でも、そんな人たちが造る建物って面白くないと思う。
ますますぶっ壊されます。


 戦争するときに、軍事力は数字で表されます。
数字を覆せば優秀なんだけどね。
でも、これって経済でも同じ、いや、それ以上に使い込んでいる。
建物は資産として金額をつけられる、人も働きに応じたサラリーを受け取る。
経済って純粋に戦争なのかもしれない。
経済学は兵法かもしれない。昔に置き換えればね。
CEOは指揮官ってところかな。
なら、その中で素晴らしい評価をもらった建築物はどうなるのか。
建物だって、人だって、価値が流動的になると思う。
その中で残ることのできる建築、特に現代のものって、あるのだろうか。


 あるものを壊して造り、の繰り返し。
ある意味哲学かもしれないし、経済に飲み込まれているだけかもしれない。
それでも、人は作り続ける、働き続ける。
人も街も普遍性のない中でもがき続ける。
でも、いつまでも続けるわけにはいかないし、どうなるんだろう?
最後は、大声で叫んだやつの勝ちになっちゃうのかな?


でもって、イメージを超えたら現実に辿り着くってどういうことよ?