処女ビッチと自己嫌悪についてTwitterより転載

さっきの時間の講義を聴きながら横目でちらちら読んでいたものから処女ビッチと自己嫌悪って内容で意外と考えられそうだったので、まあテキトーに流してみる


この本の感想の感想なんだけど、処女ビッチで自己嫌悪してる人は読んでもいいんじゃないかなと:Amazon.co.jp: だれでも一度は、処女だった。 (よりみちパン!セ): 千木良悠子, 辛酸なめ子: 本... http://amzn.to/iQ2RIh


なんでこんな本の感想よむ羽目になったかって、なぜか参考図書に上がってたからって理由なんだけど、それよりも元の読んでいた感想が、思った以上に興味深かったからってのが理由


これが読んでいた感想:『だれでも一度は、処女だった。』千木良悠子辛酸なめ子 - 雨宮まみの「弟よ!」 http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20090309


人がなぜ性的接触に関する、意見だとか感想だとか、そんなものを読みたくなくなるのかってところからアプローチできたらいいんだけど、まあ気楽に読み流してください


先に言ってしまうと、処女だとか童貞ってことに対してのコンプレックスが無意味だよって内容の話なんだけど、それよりも積み重ねることによって起きる心境の変化やら経験が人に影響することの方が大きいよって話。で、それをどう読んでいくかってところなんだけど
昨日たまたま読んだ堀さんと宮村くんの119話が結構本質を捉えてる気がしてる:堀さんと宮村くん http://bit.ly/igWUno


処女童貞コンプレックスってのは結局のところ自分に対するコンプレックスの一つにすぎなくて、処女童貞喪失によってそのコンプレックスを乗り越えられるということはない。


雨宮さんの感想の中で「「本当に好きな人とのセックスは気持ちいい」とよく言われるが、私はそれを素直に口にすることにためらいがある。そう思ってるけど、それがどんなに甘く幸せなことか知っているけれど、その味を知ったあとで裏切られたり、それがうそだったことがわかったりしたときの…」この部分と、堀さんと宮村くんでの吉川の「好きなものを手放すときに悲しくなるから、好きなものを作らない。今では理由もなく本当に好きなものを作りたくない。」っていうところにかかってくる。


これだけだと、吉川の言う愛の定義が曖昧だから、自分で定義しちゃうけど、高校生の言う愛だから所謂特別な愛、恋人という素敵な立場でいられることに対する愛。でもその愛ってのは結局自分が認められたいという自己愛への裏返しであって、自分を受け入れられないから愛によって客体化してるだけの話。
愛されて裏切られる、裏切られなくてもいずれは別れるかもしれない。その時に自分を受け入れることができるか、今まで他者に依存して保っていた自分の部分を、自らが引き受けられるのか、向き合えるのかってところ。

ここで、処女ビッチと自己嫌悪ってところに戻らないといけないんだけど、処女ビッチってのは処女喪失を望んでいるけれどできない、しかしビッチのような振る舞いをすると、仮定する。この議論は別に処女ビッチである必要はない。


なぜ処女やら童貞やらを喪失したいかって、ある種の自己嫌悪みたいなものからくる、自己愛の客体化、めんどくさいから自己存在の内面的アウトソーシングなんて言い換えてもいいんだけど、本質的コンプレックスのすり替えみたいなものではないか。


そのような状態で、セックスして、その相手を失うと、客体化していたもの全てを自ら引き受けなければならないってところで、結局のところ自己破綻する。大半は、自己無関心やら慣れによって解決するんだろうけど、だからこそ「だれでも一度は、処女だった」のように具体的に記されると読めなくなる。


これで終わり。なんでこんなこと突然書こうと思ったかって、そりゃ猛烈な自己嫌悪を見せつけられ、そんな自分をとてもとても殺してしまいたくなっただけで、こういう問題ってのはそもそも解決しないし、どう折り合いつけるのかって悩みを客体化しただけなので、今回の、処女童貞喪失願望理由とそんなに変わらない。


追記
僕個人としての自己嫌悪な部分を見せつけられたのも、堀さんと宮村くんの49話。
宮村の自己破滅欲求と、吉川の喪失に対する不安と愛の無常さ。こんなものに僕は縛られていたのだなと思いつつ、それによって生かされている部分もあるので何とも言えない。
僕はそれに対して持たないという選択をしているが、いずれ自らそれに対して別の答えを提示しないといけない日が来るだろう。
客体化することで乗り切っていても、いつも抱えているもの、自分というものに向き合わなければいけないなと思う今日この頃。
破綻するのか、消えるのか、それは僕にもわかりません。